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利用者さんのつぶやき

利用者さんの投稿欄

ねじ式締り錠  

熊野市  喜田ひさみさん

このカギご存じですか?木製の窓や扉用で、穴に差し込み、ねじで止めることによってカギをかけるものです。

私の実家の裏口がこのようなカギで扉にカギをかけていました。しかし、いつ頃からかこのカギが壊れて5寸釘に紐を付けカギ穴に押し込んでカギの代わりとして使っていたような記憶があります。そして、5寸釘がなくなった後は、扉が開かないようにどこからか棒をひらってきて、扉があかないようにつっかえ棒のようにしていたようです。さらにその棒も何時かしら無くなってしまったようです。

母は要介護3で認知症を患い奇行が目立ちます。棒なき後は扉の隙間に何かしら突っ込んでいました。箱を置いたり、様々な物をぎゅうぎゅうに突っ込んでは、壊していました。

液体洗剤は蓋をしっかり閉めていないので倒れてほとんどその場にこぼれてしまいました。

時には、食べ物を詰めていたこともありました。その都度情けなさとヒステリーの毎日でした。何故ならばそこの鍵があいていても、泥棒が来るわけでもなく何の問題もなかったからです。そして何故そのような事をするのか全く理解できませんでした。

或るとき夫に「なぜあんなところに毎日物を詰めるのか」と怒り狂ってぼやいていたところ「壊れてるんならカギを付け替えようか」と言われました。私は「そんなことしてもこの奇行は無くならない」と余計に腹が立ちました。近くの工務店で「ねじ式締り錠」を購入して取り付けてもらったところ、不思議なことにこの後一度も扉の所に物を詰めることは無くなったのです。そして、母が自分でクルクルと鍵をねじって閉めています。

私はびっくりしました。鬼のように怒鳴っていた私は何だったのだろう。こんなに簡単に奇行が止まるなんて信じられませんでした。高々数百円のカギですが、私にとってはこんな簡単な物でさえ取り付けるという事 は未知の世界だったのです。しかも、カギを付けるだけで母がなくなるとは思ってもいませんでした。

思えば、母にとっては、棒がなくなって「人が入って来るのじゃないのか」とか「カギをしなければ」とか不安になったが「カギを付けてほしい」と人に伝えることが出来なかったのです。それで止む無く物を詰めていたのです。鍵を付け直す事によって、母の不安が解消されたのです。私は、そこに思いが寄らずに行動ばかり気がとられて、単に奇行だと思い込んでしまったのです。認知症からくる奇行だと思い込んでいた母の行動にも理由があったんだと言うことを思い知らされました。

きちんとした鍵を付けることによって、母の心のカギを開けることができました。

「私の年輪3 」 新宮市 橋口嘉代さん

 「新宮に住まいして米寿を迎え、そして今」と題しましたが、月日の過ぎることの早いこと、そろそろ卒寿を迎えることとなりました。
昭和三十三年当地に定住することになり、主人は数寄屋建築の職人として他府県を廻り、中でも岩手県の中尊寺の茶室の建築の年には十か月余り子供達とは電話や手紙などで満足していました。黒潮国体の前年度は岩手国体で、サッカーの試合会場は遠野市で行われ、黒潮国体では新宮市佐野のグラウンドとのことで、前年遠野市への見学に参加しました。和歌山県代表は決勝戦まで残らず、一日自由時間が取れたので、方言も少々聞いてみたいため、平泉まで各停の列車に乗ってみました。あちこち見学をしながら中尊寺まで伺いました。その頃の管主さんは今東光さんでしたが、職員さんに大変お世話になり、明日は皇族の妃殿下の方々がお見えとかで、茶室は入室禁止となっていましたが、お席で一服のお茶をいただき忘れることができないひとときとなりました。
 なんといっても新宮に住まいして半世紀余り振り返ってみると、ふるさとをこよなく愛した佐藤春夫先生「空青し、山青し、海青し」と詠み望郷詩人としての功績を残され、東くめ先生、中上健次先生他、文化の町歴史の町として寄与された方々の功績も大なるものです。
第二のふるさととして人生を送れることに感謝しかありません。数知れない人々ともお会いしました。できるだけ物事を知ろうと思って勉強にも時間を取りました。自分だけの想いにとどめることのできない性格ですので、母親クラブ当時や老人クラブ、サロン活動などに生かしてきました。
 誰でも「笑顔で暮らしたい」「心豊かに暮らしたい」「元気で老を過ごしたい」と願い、希望であり夢でもありましょう。老化と加齢は違います。ヘルパーさんにお世話になり乍らもできることは自分なりに工夫し努力し、近所近辺の人との絆、和を大切に互いに声を掛け合い乍ら笑顔で前向きに日々を過ごしましょうね。
ここで四字熟語のプレゼント。
「一笑一若」・・・笑って楽しく過ごせば若くなる
「一怒一老」・・・プンプン怒れば年を早くとる
そして皆々様のご多幸と健康を祈願し終わりとします。

「私の年輪2」 新宮市 橋口嘉代さん

第1章「出生から終戦まで」  
 出生は、現在串本町古座となっていますが、旧大島村九竜島箱島等、由緒ある風光明媚な所で、四男六女の四女として生を受け、祖父母に父母、兄姉妹の大家族でしたが、意外と仲良く過ごした記憶が蘇ります。母親は大変だったと思います。
 衣食についても思い出が多々あります。食については特に工夫してくれました。自分でも衣食についてはその頃から関心はあり、今でもおいしくできれば母に「こんなにできたよ」「ありがとう」と独り言が自然に出てきます。
ふと小学校入学式のことを思い出しました。当日は父の同伴で、帰りにお菓子(板羊羹)を買ってもらったこと、赤いランドセルは六年生まで使用したこと、五年六年の担任の先生は絵や書道が素晴らしく、私も少々おかげをいただきました。そして六年生で女学校の受験、入学当初はゆったりとしていましたが、段々と戦況が厳しくなり、空襲の時は避難したこと、幸いにして古座の町は裏山があり空からは陰になり、その反対に串本方面が視界に入ったのか、軍事基地も設置されていたので大変だったそうです。
 戦時中は姉二人は挺身隊で大阪、兵庫に強制的に行かされ、兄三人はそれぞれ陸軍としてお国のためにと出征し、和歌山二十四部隊に入隊し、階級の違いこそあれ、長男と次男は中支(中国大陸の中部地方)、三男は中隊長としてニューギニアに派遣されました。出征時は家族で慰問袋を作ったこと、自家製の梅でエキスを作って入れたことを思い出します。畑仕事は残された家族で自給自足で、料理の上手な母の工夫で苦い思い出はありません。
今年も八月終戦後七十五年となりました。戦後長男は傷痍軍人として、次男は無事帰還しましたが、三男の兄はニューギニアにて戦病死と公報が入り、当時の母親の姿、家族の悲しみは七十五年の月日が過ぎても脳裏から離れません。昨年九月東京在住の甥が団体でニューギニアの慰霊祭に参加し、その時の様子をCDに収めてくれ、すべての行事を拝見しました。
各人が戦死されたり、他界された場所に案内されたようで、現地までは道なき道、谷川のせせらぎの上を車で行く様子が見られ、七十五年前そのままであると感じました。現地の方々も献花されている姿には頭が下がりました。また、道中に各宗派の方々の慰霊塔も建てられた場所もあり、とてもきれいに手入れされ、草花も植えられていましたが、錆びついた高射砲には草が青く茂っている景色もありました。海の色は変わらずきれいでした。各地で戦死、戦病死された兵士の方々に自然と頭が下がり、冥福を祈るばかりです。
終戦から七十五年、改めて心から黙祷を捧げる今日この頃です。
(つづく)

「私の年輪1」 新宮市 橋口 嘉代さん   

  始めまして。新宮市にお世話になって六十四年、年を重ねるごとに体の自由が利かなくなり、老いとの闘いが身に沁み、後ろ向きに考えることが多くなりつつある時期に、二十数年前の病が手伝ってか、昨年から今年にかけて二回にわたり入院となり、病院にお世話になりました。
 今、走馬灯のようにくるくると思い出し、ふと故郷の梅の木を思い出し、太く大きな木のあの年輪・・・梅の木は私の祖父母が結婚記念に植えたと聞いていました。
 さてここで今回の題目を思いつき、「私の年輪」と題してみました。八十九重の小さな年輪が一つ増しました。まん丸く輪を作ることができたかな?幅の広いところもあり、狭いところもあり、大きな台風で傷をつけたところもありましょう。
 子育てに始まり、ボランティア活動、シニアカレッジスクールでの勉強会、海外の婦人団体との交流など、順調満杯、十年一日のごとくと思いきや、人生山あり谷あり、平成三年から四年にかけて「ガン」のため三か所の手術。当時余命一週間か十日と、担当医より宣告されていたらしく、二十数年後に子供たちから聞きました。自己紹介するときには、別名
「切られよさこ」と申します。ビックリする方、笑ってくれる方、時折笑いを取るために使います。「笑い」は最高のクスリです。日々楽しく過ごすことに努力しています。楽しいの字の上に+(プラス)+(プラス)で薬となります。今回「私の年輪」を三章に分け、まとめてみることにします。
 
 第一章 出生から終戦まで
 第二章 女学校卒業から結婚まで
 第三章 新宮に住まいして米寿を迎え、そして今・・・
ペンを持つことも久しぶりです。皆様日々お疲れでしょうけど、二、三行でも読んでいただければ幸甚に存じます。 

八十路の挑戦Ⅰ~Ⅶが冊子に纏められました

 八十路の挑戦Ⅰ~Ⅶが冊子に纏められました
 
「利用者さんのつぶやき」に投稿をいただきました熊野市在住の鈴木美文氏「八十路の挑戦Ⅰ~Ⅶ」(2019年6月11日から2019年9月22日まで、あすかホームページに掲載)を小冊子に纏めておられます。
鈴木美文氏自身の脳梗塞後遺症から健康を取り戻すまでのリハビリの実践と体験過程を記しておられ、脳梗塞後遺症をいかに早く克服するか、参考にしていただければと思います。なお、「八十路の挑戦」小冊子を希望される方は、ケアプランセンターあすかまでお問合せ下さい。

八十路の挑戦【Ⅶ】 熊野市井戸町 鈴木 美文               

【7】健康管理と自主トレーニング及び左手訓練の具体化・自主作業について
1、健康管理
    ① 毎月初めに家庭医の診断を受ける。採血・検尿(血糖検査)・血圧測定
   ②  毎日の健康状態の確認を行う。
     【点検項目]
  1.  起床・就床  ② 水分補給  ③ 便通(小・大) ④ 食事
   ⑤ コーヒー   ⑥ アルコール 
   ⑦ 入浴・血圧・体重(不定期]
 
2、自主トレーニング
(1) ベッド上のトレーニング(仰向き)
      ① 深呼吸(脳は、酸素が不足するので、起きた時も、寝る前も絶えず行う)
   ② 頭を左右に動かす(首の運動)
   ③ 左右の肩を交互に動かす
   ④ 左右の指を組んで、手首、指の運動をする
(2) ベッド上のトレーニング(仰向き)
① ふくらはぎマッサージ(左右足の裏でふくらはぎをこする)
② 左右交互足踏み      
  1.  膝たて、左右倒し
  2.  大腿ゆすり(膝たてをした膝の上に反対の足首を乗せてゆする) 
    ⑤ ひろのは体操
(左足のみ・足の指に手の指を突っ込んで足の指を曲げる・伸ばす、グルグル回す運動)
    ⑥ 手足左右の爪もみ・指の腹もみ(薬指は除く)=自律神経刺激
    ⑦ 左右起き上がり(腕を抜くだけでもたいへんですが、少しずつ頑張る)
    ⑧ 膝屈伸(正座は無理ですが、徐々に深くしていく)
    ⑨ 膝歩き(なかなか歩きにくいが、1歩でも歩く、2歩・3歩と増やす)
(3)寝室でのトレーニング
  ① 動体バランス       ④ アキレス腱
② 左右交互踵上げ      ⑤ 立ちあがり
③ 足踏み          ⑥ 玉石踏み
 ※ 夜間にベッドから起き上がった時(トイレに起きた時等)、
  ① ベッドに座ったままで「足踏み」20回行う
  ②「その場足踏み」を30回行って、落ち付いてから歩き始める。
③ 必ず杖歩行をする。
  ④ ふらついて、こける心配があるので、歩くことの意識づけ、心構えを持って歩く。
  ⑤ こけると、「腰を打つ、背骨を打つ」「骨折する」などで、寝たきりになってしまうことになりかねません。安全には十分に気を付けるようにしましょう。
(4)左手訓練の具体化(両手で行う)
    ① 洗面をする。   ⑦ 洗濯機―乾燥機使用  ⑭ ゴミ処理
② 衣類の脱着    ⑨ 洗濯物たたみ     ⑮ 鉛筆削り
   ③ 布団たたみ    ⑩ ひも結び       ⑯ 爪を切る
   ④ 食器洗い     ⑪ 掃除機かけ      ⑰ 定規を使う
   ⑤ 靴履き      ⑫ ふき掃除       ⑱ カッターを使う
   ⑥ 野菜刻み     ⑬ かたづけ
(5)自主作業                     
① パソコンを打つ                    
   ② 本や家財道具の処理をする。     
   ③ 食器等の片づけをする。             
   ④ 玄米炊飯をする。                   
* 玄米選別(もみ・いたんだもの・割れたもの除去)=1升、約40分
* 炊飯=(7分火25分・13分)・(5分火)15分
* うまし=50分(炊き上がり)
* ジャーに移す
⑤ 洗濯物・シーツ・布団カバー・布団を竿に干す。
⑥ 風呂に湯をはる・ぬく。
⑦ 風呂の掃除をする。
⑧ 庭の草取りをする。
⑨ 庭木の剪定をする。
 
大勢の皆様方の激励やご支援のお蔭をもちましてやっとここまで回復することが出来ました。  なお、富田理事長さんの御世話で、週2回のホームヘルパーさんにお世話を頂き安全第一にしてこの度、一人生活に踏み切ることが出来ました。
 心から感謝申し上げたいと思います。
皆様、長期に亙っておつきあい頂きありがとうございました。どうか、日々の生活の充実と健康管理をしっかりとしていただきまして、お元気にお過ごしいただきますようお祈り申し上げます。
 ありがとうございました。
 

八十路の挑戦【Ⅵ】  熊野市井戸町 鈴木 美文   

【6】堀尾式訓練について
 堀尾氏から直接ご指導頂きました訓練内容に加え、堀尾氏の著書「奇跡の復活」「麻痺は治る」の2冊を参考にさせて頂き、自分なりの「訓練日課」を作成し、平成30年12月からABCDのそれぞれ10項目に亙って実践し、その状況に応じて修正しながら実践し、現在に至っております。
(1)「指」の訓練
① 指コルセットの装着(指関節を伸ばす自作器具)
  * 約2時間装着する。その間、絶えず各指に曲げ・伸ばしの信号を送る。
  * 取り外したときは力を入れないように心得て、各指を静かに曲げ・伸ばしする。
  *   握っていた拳が、徐々に伸びて、動かしやすくなってくる。
  * 各指の屈伸は、根気よく数千回の訓練を行わないと効果が出てこないと言われています。
  * 材料は、オーマートで購入しました。
② 米(小豆)握り=私は「小豆握り」左右の手で行っています
 * 指は、「握ったまま」の場合は、容器に入れた小豆の中に拳を突っ込み、
容器を右手で回転させることで、拳をだんだん中に入れることが出来ます。
③ 指押し
 * 左右の手のひらを合わせて同じ指同士で押し合う。(両膝の間でおす)
④ 手拭握り
 * 手拭を丸め、輪ゴムで3か所程を止めて握る。
⑤ [あられ]つまみ
 * 左手でつまみ口に運ぶ。
 * 右手で左手の肘を補助する。
(2)「 腕・肩・肘」の訓練
① 腕振り(左右)
 *立位姿勢で、動体バランスを取りながら行う。
② 肩、上下・前後回転
 *立位姿勢で、動体バランスを取りながら行う。
③ 肘屈伸
(3)「足」の訓練
① 車椅子左右両足交互漕ぎ
 * かかと→土踏まず→拇指球(親指の付け根)
           →爪先の順に力を移し、爪先で床を蹴る。
 *「歩行」を急がず、みっちりと行う。
 * 左右交互に歩くリズムを会得する。
② 爪先上げ(なかなか難しいが、少しの動きを大切にする)
③ 左右交互かかと上げ(なかなか難しいが、少しの動きを大切にする)
④ 左右交互大腿上げ
⑤ 三角体重移動(左右)
⑥ 動体バランス(両足・片足)
⑦ 足踏(ゆっくり大きく)
⑧ フリー足踏=腕を振る
⑨ 杖歩行(リズムに気を付ける)
⑩ 杖なし歩行=腕を振る
⑪ ロープ引き(手・足)=意識をして手・足を挙げる努力をする。
⑫ 杖庭歩き(徐々に部屋~外に慣らす)
  
わたしは、お蔭で2年間のリハビリでも動かなかった指が、堀尾先生に訓練方法をご指導頂きましてから、4ケ月の自主訓練をすることによって動き始めました。
歩行もリハビリ病院で特別注文をして作っていただいた、足首を固定していた装具を取り外しての訓練を行いました。その結果、足首は、今のところ少し動き出した状態ですが、徐々に動いてきそうです。
歩行も不安定ながらも、杖なしで50mは歩くことが出来るまでに、恢復することが出来ました。本当に有難いことです。嬉しい限りです。
この恢復がわたしに勇気を与えてくれたのです。今回「一人生活に挑戦」できたのも、この少しずつでも訓練すれば回服するという希望がわたしの心を動かしてくれたことと思います。
さらに、今後の訓練によってかなりの恢復が期待できると思いますので、今後、脳梗塞の後遺症で悩んでおられる方々と、ご一緒に訓練ができることが、わたしの残された人生の「いきがい」です。
「脳梗塞の後遺症」で、腕や足が麻痺をしておりますが、筋肉にも骨にも異常がないのです。ですから、脳に刺激をあたえること(「自分の意志で指や足を動かす」という刺激)が大切なのです。脳は多くの酸素を必要とするので「深呼吸の大切さ」も指導されました。
初めは、わずかな動きでも、回数を重ねるうちに徐々に動きが大きくなってきます。
私もまだまだ、訓練が足りないと自覚しています。
元気を出して、ご一緒に訓練しませんか。

八十路の挑戦【Ⅴ】   

【5】外部支援と安全確保および安否確認について
 
1、外部支援
(1)ヘルパーさんの支援―毎週「火曜日・木曜日の2回」各1時間
  * 火曜日=10時~11時  木曜日=2時45分~3時45分
  * お願いしたいことを黒板に書いておき、手順を自分で決めてやって戴く。
  例1、調理(素材例=カボチャ、ジャガイモ、肉、玉ねぎ、スパゲテイー))
  例2、ごみの収集と分別
  例3、入浴時の安全確保(入る時・出た時は伝える)
  例4、洗濯物→洗濯機へ・乾燥機からの取り込み
  例5、掃除=浴槽・1階の各部屋掃除機・台所モップふき
(2)惣菜屋さんの副食配達
* 月曜日・水曜日・金曜日(昼食・夕食の2食分)をお願いしています。
(3)親戚(姪)の支援
  例1、調理の素材の買い物
  例2、ごみ捨て(金曜日)
  例3、郵便物の投函・メール便・振り込み
  例4、預金の引き出し
  例5、・買い物
(4)近所・友人・親戚の支援
  例1、差し入れ
  例2、作業・その他の手伝い
     * 作業内容を黒板に書きだしておいて、まとめて遣ってもらう。
 
2、安全確保
(1)要所要所への手すりの設置
 4月末に来熊した娘の旦那が、材料を購入して短時間で次の5ケ所に設置してくれる。
*設置場所
①二階への階段昇降     ②玄関上りかまち     ③裏出入り口 
 ④浴室への出入り口    ⑤浴槽の出入り
(2)介護関係業者による手すりの設置
   *設置場所
① 裏庭への出入口(両サイド)    ② 浴槽の側面
 
3、 安否の確認
(1) 娘と2人の息子とのラインの交信
(2) 電話連絡を行う。
(3) 三嶋さんに安否を知っていただくために、起床と同時に、裏扉のカーテンを開ける
(4) その他
   * 数人の方との「ライン」の交信を、出来るだけ行うようにする。
 
4、その他
 ① 姉・義姉との電話=「料理の仕方」等を聞く・その他
② 家庭医との連絡
 ③ 親戚・近所・友人の携帯電話番号を了解を得て、連絡しています。

八十路の挑戦【Ⅳ】

【4】脳梗塞の後遺症を自力で克服した堀尾氏との出合いについて
 
平成30年の11月中旬のことでした。吉野熊野新聞に「12月8日に天女座で脳梗塞の後遺症を自力で克服した、堀尾氏の講演がある」という記事を見つけました。
それを、娘に見せたところ、堀尾氏の携帯電話の番号を見つけた娘が、早速、電話をしました。夜の10時を過ぎていましたが、有り難いことに丁寧に対応して頂きました。
そして、12月23日には仙台で、24日には福島県二本松市で開催することを教えて頂くと共に、事務局との連絡をも取っていただきました。
翌日、FAXで参加申し込みをしました。
その24日の当日には、娘の運転で茨城県鹿嶋市を早朝に出発して、福島県二本松市の交流会館まで5時間かけて行きました。
二本松市の交流会館では、20数人の方が参加していました。その中の70過ぎの男の方が発症から12年を経過しておられましたが、拘縮した指にコルセットを装着して、わずか2時間で指が動いたのを目の前で見ることが出来たのです。
早速、堀尾氏のご都合を伺い、快諾いただきましたので、帰りの車に同乗して頂き、自宅近くのホテルに宿泊して頂きました。
堀尾氏に翌日から3日間自宅にお越し頂いて、ご指導を仰いだのでした。
堀尾氏は、「筋肉も骨も異常がないのです。ただ、脳細胞の一部が突然の血液不足のために壊れてしまったのです。」「しかし、脳はそんな時に働くために、95%が使われずに待っているのです。」と言われるのです。
「自分の意志で指を動かすことで、健常な部分が手助けをするようになるのです。」「その脳からの信号をつなぐためには、何千回、何万回もの信号を送らなければなりません。」とも伺いました。
堀尾氏が自力で脳梗塞の後遺症を克服されただけに説得力があることに感銘しました。
なお、堀尾氏は「脳梗塞は人生のご褒美です」と言われましたが、それは、「一日毎に少しずつ回腹する喜びを体験できる」ことです。
わたしは、その後堀尾氏にご指導頂いた訓練方法と先生の著書を参考にして日課表を作りました。それにつきましては次の章で述べさせて頂きます。
その表題には、【堀尾式訓練日課表】―治ると信じ「動いて!」と念じて頑張る!!
―不屈の精神、実践あるのみ、手の訓練は休憩時絶えず行う。―と記しました。
 回復の状態は「年齢や発症後の経過年数に関係なく治る。」と言われるのです。
 わたしは、現在80歳です。訓練日課表に従って、訓練を継続して行っております。
 発症から2年半が過ぎておりますが、効果は確かに表れてきておりますので「自分の努力次第である。」ことを肝に銘じて、回復を信じ、希望を持つことが出来るようになりましたので、今回の「一人生活」に踏み切ることが出来たのです。
なお、熊野に帰る1ケ月前の3月30日には自宅指導を受けてから4ケ月後の「回復の状況」を見て頂くために、長男の車で前日に二本松市に出かけ、1泊して実践研究会に出席したのでした。
 そこで、堀尾氏についてもう少し記述させて頂きます。堀尾氏は、岐阜のご出身でご家族も岐阜におられます。しかし、沖縄の宮古島で実践指導の施設を無償提供される方がみえて、そこを拠点にして全国にご指導に出向かれておられます。
 人は、使命感・宿命を持ってこの世に生まれてくると言われます。
 堀尾氏が、脳梗塞で意識不明の時に、「あなたは、まだやることがあると言って、追い返された」と伺いました。「脳梗塞の麻痺で困っている人を助けなさい。」と言われたのだと思います。
 さすがに、堀尾氏に最初に娘が電話をさせていただいた時も、夜間でも丁寧に応対して頂き、世話係の方への連絡をも付けていただきました。
さらに、お会いして感じたことは、非常に温和で優しく、丁寧にご指導いただきました。
自宅でご指導いただいている時にも、携帯電話がかかり、千葉県からお父さんに車に乗せてもらって来られた方がみえましたが、直ぐにご指導いただいたのでした。
2日間自宅でご指導いただき、3日目は千葉県の美術館にご一緒したのですが、堀尾氏が使命感をもって訓練指導に熱中されておられるご様子が、至る所でひしひしと伝わってきたのでした。
 先日のことですが、堀尾先生から電話を頂きました。福島県二本松市の文化交流会館の吉井さんから連絡をもらったとおっしゃって、お電話をくださいました。
先生は現在、東京・東北・北海道の10数ケ所で講演・実践指導の予約があるとのことでした。
 これだけ回復の効果が表われているにもかかわらず、脳梗塞の専門医は、治った事実を伝えると「それは、もう治る時期が来ていたのだろうとか、治った人は後遺症が軽かったからだろう。」などと言って、相手にしてくれないらしいのです。
 しかし、最近、テレビで専門医が、MRIで患者の脳を写しながら指を動かして、脳の一部に変化があることを放映するのを見られた方もおられるのではないかと思います。
専門医の中には、脳の異常に気づき始めた医師もいるのではないかと思います。
つまり、脳梗塞の麻痺はリハビリによって筋肉や骨へマッサージではなく「大事なことは、自分で手足を動かすことによる脳への刺激であること」に気づいてきたのではないでしょうか。
 わたしは、お蔭で2年半のリハビリでも動かなかった指が堀尾先生のご指導によって、4ケ月の自主訓練で「握りしめた指も伸び、動き始め」ました。
足首はリハビリ病院で金具で固定していた装具を取り外し、不安定ながらも、杖なしで50mは歩くことが出来るまでに、恢復することが出来たのです。本当に有難いことです。
もう「生涯、車椅子生活だ。」と思っておりましたが、夢のような回復です。
さらに、今後の訓練次第で、かなりの回復が期待できると思っております。
脳梗塞の後遺症で悩んでおられる方々と、今後、ご一緒に訓練ができることが、わたしの残された人生の「いきがい」です。
「脳梗塞の後遺症」は治るのです。元気を出して、ご一緒に訓練しませんか。もし、先生に直接ご指導をお願いしたいと思われる方はご連絡ください。宮古島まで出向いて指導を受けてこられた天女座のご主人とも相談して、お招きしたいと思います。

八十路の挑戦【Ⅲ】 熊野市井戸町 鈴木 美文                

【記号3】大勢の方々や友人の激励と親戚・家族の支えについて
 
発症から2週間が過ぎた頃、友人の勧めで津市のリハビリ専門の七栗記念病院に転医しました。最初は、衣服の脱着ができないばかりか、寝返りさえもできない状態で、車椅子に載せてもらって入院したのでした。洗濯物も病院で借用したバスタオルやパジャマをしていただけるだけなので、下着やその他の洗濯物は、親戚が毎週取りに来てくれたのでした。郵便物の投函や日用品の購入と爪切りもしてもらったのでした。また、普段履いていた靴下を履くにも15分間もかかることから、短いものを買ってきてくれたので、大助かりだったことも忘れることが出来ません。
 なお、その間、大勢の方々や友人のお見舞いや励ましのお言葉をいただきましたので、何としても回復しなければならないという気持になったのでした。
七栗記念病院は午前中は作業療法士先生による腕中心のリハビリ、午後は理学療法士先生による左足に装具を付けての歩行訓練をしました。なお、夜は、入院室の隣の相談室で自主トレをしました。しかし、2ケ月で退院しなければならなかったので、その後は、茨城県鹿嶋市の娘の嫁先で2年半に亙って厄介になりました。
退院したわたしは、娘の旦那の母親と3男の幼稚園の年長の孫と大学入試の大事な時期の次男の5人暮らしの家に突然ころがり込んだのでした。孫は幼稚園から帰ると、毎日のように祖母と3人で「桃太郎」や「ウサギとカメ」等々の寸劇をするのが楽しみでした。その孫との遊びに気がまぎれ、癒される思いでした。家内に先立たれてからの8年間は寂しい一人暮らしをしていましたので、孫のお蔭で賑やかな毎日を過ごすことができことが大きな心の支えとなったのです。
浴室は手すり等の完備はできていたのですが、入浴では情けないことに一人で入ることが出来ないので、娘に介助してもらわなければならなかったのです。わたしが脱衣場で衣服を脱いでいる間に、孫と娘が先に洗い場に入り、孫が折りたたみ椅子を準備してくれるのです。わたしは衣服を脱ぎながら「もういいかい?」と尋ねると、孫が「まあだだよ。」と応えます。しばらくして、準備が出来ると、孫が「もういいよ!」の合図をしてくれます。それを聞いたわたしは洗い場に入って、孫の準備してくれた椅子に座るのです。すると、孫が石鹸のついたタオルで背中を洗い、頭も洗剤をかけて洗ってくれるのです。突然の発症で自由の利かない身体ですから、弱気になっていたのですが、孫に救われたことは
言葉に言い表せないほどの有り難さでした。
 なお、1年後には何とか一人で入浴できるようになったのですが、浴槽から上がって脱衣場に出た瞬間にふらつき、入り口扉のガラスを麻痺側の左肘の反射的な肘鉄砲で割るという失敗もありました。
 その後、かなり回復した頃には孫が時には杖を持って、「杖なしで歩く」ように引っ張ってくれたことも、歩行の大きなリハビリになったのでした。
次に、このことにつきましては躊躇していたのですが、わたしの人生の中で生きる支えとなった最大の事柄ですので、お許し頂き記述させて頂きます。
わたしは12月の半ば過ぎに娘の嫁ぎ先の阪口家に厄介になったのですが、その翌年の4月のことでした。熊野市役所の市長公室長さんからの電話で「春の叙勲の候補になりましたが、受けられますか」という問い合せがあったのです。 
 突然のことで戸惑いましたが、現職時の仕事で叙勲に関係したことを思い出し、これは、「考えさせていただきます。」と言ってはいけない。と判断しましたので、即座に「身に余ることですが光栄なことですので、謹んでお受けさせて頂きます。」と応答させて頂いたところ、「4月末まで部外秘です。詳細については文書で通知します。」とのことでした。
 4月末には文書が頂き、授賞式は5月12日に国立劇場で行うこと等々の連絡がありました。家族に話すと、家族で皇居近くのホテルで一泊して授賞式に臨むことにするという嬉しい計画を立ててくれたのです。
 当日の朝は国立劇場まで送ってもらい、娘に車椅子を押してもらって受付をした後、式場の指定の席に向かいました。授賞者は文部科学省関係で700余名おりました。午後は、12台のバスで皇居に向かい天皇陛下に拝謁です。大広間に授賞者が並び、その後ろに少し間隔を開けて、授賞者の奥様方が整列しました。付き添いの娘たちは、皇居の一室の控え室で待機したのでした。わたし達車椅子の授賞者の20余名はカギの手に整列しました。
定刻になると、左前入り口の自動扉が開き、SP・陛下・SPの順に700余名の授賞者の前をお進みになられ、陛下は、中央で左に回られてステージにお上がりになられました。
すると、授賞者の代表の女性の方が出て、お礼のご挨拶をしました。
陛下は「皆は、社会の為・国の為に尽してくれました。」と述べられたあと、ステージの右の階段をお降りになられて、わたし達車椅子の授賞者の前を時々立ち止まられ、お声をお掛けになられながらお進みになられました。わたくしは車椅子の前列の最後尾でしたので、陛下は立ち止まられ、柔和な笑顔で「健康に気を付けてください。」とお声をおかけくださいました。わたくしは、ただただ有難く頭をさげるのが精一杯でした。
陛下はその後、授賞者と奥様方との間をお進みになられ、お入りになられた自動扉からお帰りになられたのでした。その間10数分間の拝謁でしたが、身に余る光栄であったとつくづく思います。
なお、その数日後には近くに住む親戚に呼びかけてくれて、授賞の祝賀会を盛大に催してくれたのでした。熊野で一人生活をしていたら、多分、授賞式への出席さえも出来なかったと思います。
このあと八十路の挑戦【Ⅳ】で記述させて頂きますが、堀尾氏は「脳梗塞は人生のご褒美だ」と言われましたが、脳梗塞で娘の嫁ぎ先で厄介になっており、娘夫婦の計らいで授賞式にも参加でき、皇居にも行かせてもらうことが出来ました。
堀尾氏の云われる「人生のご褒美」に加え、さらに大きなご褒美を頂いたのでした。本当に有難く心から感謝したいと思います。
なお、夏に熊野に帰った時にも、親戚が集まって、授賞の祝賀会をしてくれたのでした。また、先日は熊野還球会の会員の皆さんが祝賀会を催してくれました。本当に有難いことで、生涯の大きな思い出であります。
この「瑞宝双光章という叙勲」を拝受したことをいろいろと考えてみることにしました。
思い当たることを挙げさせていただくことをお許しください。
1つは、17年6ケ月間に亙る熊野市青少年育成市民会議における青少年の健全育成と児童生徒の安全確保について
① 熊野市青少年の育成会議の活動の組織化です。
② 自治会や町内会の役員さんやPTA役員さん方の協力のもと、児童生徒の登下校中の及び街中での安全確保活動の取り組みです。
③ PTA役員さんの協力のもと、学校図書の修理活動や児童生徒の悩み相談等の学校支援活動をしたことです。
2つは、6歳時に体験した東南海地震・津波について
① 体験記を津波絵本も含めて三集自費出版し、熊野市・南郡の小中学校図書館及び県立図書館寄贈すると共に・紀南医師会の先生方に進呈させて頂いたことです。
② 主に熊野市・南郡の小中学校・高等学校及び市民・町民・PTA・老人会の皆さんへの体験講話活動をしたことです。 
③ 紀南医師会の先生方の指摘により、ニ木島区,里区の皆さんの寄付による「森本福太郎翁の顕彰碑建立」のお世話をしたことです。
3つは、旧荒坂村古文書「郷土誌」及び「郷土誌(追記)」の発刊と荒坂中学校【私たちの郷土】三集の出版をしたことです。
① 「郷土誌」は波戸吉二郎氏の自費出版です
 この「郷土誌」は、大正5年に荒坂尋常小学校の大野善次郎校長先生が先生方の調査した内容を毛筆で書いた古文書です。それを、パソコンで打ち編集したものです。
② 「郷土誌(追記)」の発刊と3代の校長先生に亙る荒坂中学校の生徒が調査し文化祭で発表した、【私たちの郷土】をニ木島区民,里区民の寄付によって出版いたしました。
4つは、紀南及び三重県退職校長会の活性化と運営のお世話をしたことです。
以上が考えられますが、既に元号が変わりましたので、わたし達の授賞は、平成最後の授賞となったのです。
なお、皇居では授賞者の奥様方が同席しておられましたが、家内が既に他界していて出席もかなわず、内助の功に対してお礼の云えなかったことが悔やまれる思いです。
本当に身に余る光栄な事であります。今後も微力ながら社会の為に尽したいと考えております。
更に、娘夫婦のことを述べさせていただきます。娘夫婦は父親の興した建設会社を引き継ぎ、経営を改善し、創業45周年を迎えるまでに努力してきました。なお、母親の家事一切や孫の世話の支えのもと、3人で頑張って会社経営と孫たちの成長のために頑張ってきたのです。嬉しい限りです。
今では二人は建設業の皆さん方からも信頼され、地域にも貢献しようと地道に励んでいる様子を見たわたしは、この度、一層奮起させられたのでした。

八十路の挑戦【Ⅱ】  熊野市井戸町 鈴木美文    

(2)作業療法士の鷲尾先生の「不可能はない」の言葉について
 
 わたしは、自宅に来て戴く「訪問リハビリ」と送迎バスで病院に通う「通所リハビリ」を毎週二回ずつ受けていました。その通所リハビリ病院に毎週お見えになる、病院の顧問で作業療法士の鷲尾先生に出合ったことです。
リハビリ病院では「脳梗塞による麻痺は悲観的」にしか捉えられていないのですが、海外へも研修に出向かれるほどにご熱心な鷲尾先生は、拘縮で握りしめた私の拳を両手で持って何かを確かめられた後、「不可能はない」と励ましてくださったのです。
 その言葉に、わたしは嬉しさのあまり、こみあげてきて、しばらく言葉が出なかったことを今も忘れることが出来ません。
 それは、わたしが体験した真っ暗な長いトンネルを歩いて、やっと出口の光を見た時の感動と同じだったのです。                             
 実は、私が大学3年の夏休み前のある日のことです。昭和34年7月15日に紀勢線が全通したのですが、この紀勢線は長いトンネルが多いことから、これまでの牽引車のD51という石炭車から全線ジーゼル車に変更なったのです。
 その開通前に試運転車が走っている時のことでした。これまでの三重大学教育部の生物学科の2週間の臨海実習は志摩半島でのみ実施していたのです。
 しかし、今年は夏季休暇前に紀勢線が全通するので、紀伊半島まで足を延ばし、ニ木島の荒坂中学校を借りて実施する事に決定したのです。
 そのための事前調査の係を私達3年生の5名が選抜されたのでした。 そこで、わたし達5人は前日に阿曽の友人の家で一泊させて頂き、試運転車に乗せてもらう予定で、翌朝一番列車で試運転車の始発の九鬼駅に着きました。
 早速、駅長さんに「乗せて戴けませんか」と、お伺いしたところ「とんでもな
い。」と、大変立腹した口調で乗車を拒否されてしまいました。わたし達は、トンネルの中をを歩けば2キロを余る長いトンネルをいくつも歩かなければなりません。矢ノ川峠を越えることの大変さから比べると比較にならないほどの近道なので、何とか黙認してもらえるように懇願しました。
 幸い黙認してもらえることになったものの、何の準備していないわたし達は、一寸先が見えない真暗なトンネルの中を10数個歩かなければならないのです。
 そこで考えたのが、手ごろな棒切れを拾って線路に添わせて歩くことです。5人はそれぞれ大声を出すことで、お互いの安否を確認し合って歩き出しました。
 朝6時過ぎから歩き始めて、昼食もとらずにニ木島に着いたのは夕暮れ近くでした。ところが、目的のニ木島の手前の賀田トンネルの中で、後ろから異様な音が聞こえ始めたのです。
 試運転車の音なのです。その音がだんだん大きくなってくるのです。後ろを振り向くと試運転車の明かりが見えました。わたし達は口々に大声で「トンネルの脇にふせよ」。と叫びあい、試運転車をやり過ごしたのでした。
 その後、お互いの名前を大声で呼び、安否を確認し合ったのでした。
 5人は「やった―着いたぞ!」と喜びの歓声を上げ、抱き合って喜んだものです。
 真暗なトンネルの中で出口の光が見えた時の感動は、今も忘れることが出来ません。
 鷲尾先生の「不可能はない」のお言葉は、この真暗なトンネルの中で前方の出口の光が見えた時の感動の体験と同じ嬉しさだったのです。
 わたし達は次の日には、荒坂中学校の校長先生に許可を頂き、食事の賄の方をも紹介していただき、お願いに行きました。
 午後は水泳の用意をして、磯浜に行って実験生物の有無を調べる本務に入り、磯の石をはぐったり海に潜ったりして確認した生物のメモをとったのでした。
 そして、夏季休暇に入った7月23日から男女30余名の参加と2名の教授の付き添いのもと久々の紀伊半島における臨海実習を開始することが出来ました。
 地域の方々からも大歓迎され、漁船で楯ケ崎の観光や千畳敷への上陸も経験させて頂いたのでした。
 ところが、漁船には女学生が乗せてもらえないので、艪船に載せて私がその艪船の舵取りをしたのも、今となっては忘れられない体験です。
 
 この章を閉じるに当たり、皆様に御願いがあります。
 わたしは、お蔭で二年間のリハビリでも動かなかった指が、わずか四ケ月の自主訓練によって動き始め、歩行も足首を固定していた装具を取り外し、杖なしで不安定ながらも、50米は歩くことが出来るまでに恢復することが出来ました。
 実は鹿島アントラーズの根拠地のサッカースタジアムの三階はランニングコースとして開放されており、そこを一周すると630mあるのですが、ここを休むことなく歩くことができました。
 今後の訓練により、かなりの回復が期待できると思いますので、この先脳梗塞の後遺症で悩んでおられる方々と、ご一緒に訓練ができることが、わたしの残された人生の「いきがい」です。
「脳梗塞の後遺症」は治るのです。元気を出して、ご一緒に訓練しませんか。

8 0 路 の 挑戦 【Ⅰ】  熊野市井戸町 鈴(すず) 木(き) 美(よし) 文(ふみ)

 人は、この世に生を受けたからには、生きなければならない。
脳梗塞で左片麻痺と言う後遺症を受け、この後、どうなることかの「不安と寂しさに苛まれる」毎日であっても、命のある限り生きなければならない。
 わたしは、この度、2年半ぶりに「8 0 路 の 挑 戦 」の一つとして、熊野で一人 生活を始めました。
そんな決断には、次のような動機があります。
 1つは、「脳のトレーニング」のためにパソコンを打って、著書「植物の神秘を追う」を発刊したことです。
 2つは、病院の顧問で、作業療法士の鷲尾先生の「不可能はない」の言葉です。
 3つは、大勢の方々や友人の激励と親戚、家族の支えです。
 4つは、脳梗塞の後遺症を自力で克服した堀尾氏との出会いです。
 5つは、ヘルパーさん・惣菜屋さんの外部支援と安全確保・安否の確認です。
 6つは、堀尾式訓練と自主トレーニングについて
 7つは、健康管理と自主活動について
 それぞれについて、もう少し詳細に述べさせて頂きます。
 
  1つは、「脳のトレーニング」のためにパソコンを打って、著書「植物の神秘を追う」を発刊したことについて、脳梗塞発症後、2年目に入り、娘の嫁ぎ先で「訪問リハビリ」を受けている時のことでした。理学療法士の先生から「脳梗塞による左片麻痺」は、左手足の麻痺のみではなく、 脳にも障害があるので「脳のトレーニング」の必要性のあることを指摘されたことです。その「脳のトレーニング」の1つに茨城県理学療法士協会で作文を募集しているので応募するように勧められ、作文を書き、応募しました。
 
 2つは、著書「植物の神秘を追う」の刊行です。
わたしは、小学校の10年間の勤務時に、学校で発行していた雑誌「初等教育」に、「わたしの科学歳時記」の原稿を数回に亙って投稿していました。退職後は勤務時の同僚の勧めもあり、その原稿を整理すると共に、さらに、原稿を 書き加えて、著書「植物の神秘を追う」として仕上げたいと考え、準備を進めていたのでした。そこで、早速、パソコンを送ってもらって、右手のみの不便さはありましたが、パソコンを打つことで「脳のトレ」を開始しました。
 
 なお、植物図鑑をネットで購入するなどの家族の協力に加え、有り難いことに小学校 勤務時の吉田教頭先生に推敲をお願いしたところ、快くお引き受け戴くことが出来たので、その年の暮れには待望の著書を発刊することが出来ました。お蔭で生きる大きな慶びと共に、これからの人生に希望を持つことが出来たことです。
  
 この章を閉じるに当たり、皆様にお願いがあります。
2年間のリハビリでも「動かなかった指」が堀尾先生に訓練方法をご指導いただき、自主訓練を続けたことで、わずか4ケ月で動き始めたのです。
 歩行は、足首を固定していた装具を取り外し、不安定な歩き方ですが、「杖なし」で 50mは歩くことが出来るまでに恢復することが出来ました。今後の訓練によって、かなりの恢復が期待できると思いますので、この先、脳梗塞 の後遺症で悩んでおられる方々とご一緒に訓練を出来ることが私の残された人生の「いきがい」です。
「脳梗塞の後遺症」は治るのです。元気を出して、ご一緒に訓練しませんか。
 
 次は、病院の顧問で、作業療法士の鷲尾先生の『不可能はない』の言葉について述べさせて頂きます。 
 
 

年寄りの寝言

 昔は、何百人も人を使っていた人を社長と言ったが、今は一人でも社長。
親方、大将、だんな、小僧はどこえやら。
 世の中の亭主殿、令和の時代は働き方改革で、どえらい事になるどい。
休日になれば、かかあは奥様で一寸出かけます。あとよろしくね。と外出。
とたんに亭主小僧に早や変わり。掃除、洗濯、庭の草取り、おまけに夕食
の買い出しと語るも涙、聞くも涙の物がたりになりますぞい。
 しっかりしなはれや。
大正、昭和、平成、令和、生き抜く爺々。ここにあり。
 はいさようなら。
 
匿名の投稿者さんより
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